愚神と愚僕の再生譚
3.ある家族のかたち① きっと母は褒めてくれるから。
◇ ◇ ◇
(やった!)
リアムは心の中で、歓喜の声を上げた。
流れ落ちていた血が宙に浮かび、手にした緋剣――練習用の小刀タイプ――へと集まっていく。
(やった!)
繰り返す。だってこのことを話せば、きっと母は褒めてくれるから。
頭もなでてくれるかもしれない。最近はあいつのことばっか構って、こっちはないがしろだったけれど……
そこまで考えた瞬間、嫌な顔が頭に浮かんだ。いらっときて顔をしかめると、
「あっ」
集中が途切れ、液体に戻った血が床へと落ちる。びちゃっと音を立てて跳ねたそれは、床だけでなくリアムの靴先も汚した。
「あー……」
足元を見下ろしながら、尾を引くように息を漏らす。と、
「おいジャリガキ! なぁんで集中をやめた⁉」
横殴りの怒鳴り声に頭が揺れる。リアムは慌てて顔を上げた。
「す、すみませんグレイガン先生っ」
リアムが立っていたのは、体育館内のコート中央。今は、血液干渉を試すテストの真っ最中だ。
髭もじゃでいかつい大男が、ずかずかと歩み寄ってくる。
5歳のリアムにとって世界の大半は『大きな人』だらけだが、それでもひときわ大きいのが、このグレイガン先生だった。しかも見た目通りに怖い。
グレイガンはリアムの目の前までやって来ると、がなり声を吐き出した。
「この流れで! お前以外全員成功のこの流れの大トリで! よくもまあ失敗できたな! テストなんてどーでもいい的アウトローか? 俺様への挑戦か? 先生の資質を問う示威行為かコラァッ⁉」
なにを言っているのかよく分からなかったが、「はい」と答えちゃいけないことだけは、なんとなく分かった。
「ち、違います先生っ。僕はただ――」
「言い訳するなイカ墨頭ァ!」
言いかけた言葉が、容赦なくかき消される。
勢いに圧されて目までつぶりながら、リアムは思った。イカスミってなに?
「イカスミってなに?」
心の声が実際に聞こえてはっとし、口を押さえる。自分に断りなく、口が勝手にしゃべったと思ったのだ。
しかしよくよく振り返ってみればその声は、いつも聞く自分の声ではなかった。それに聞こえてきたのは、コートの外からだ。
「ねえねえ、イカスミって?」
「俺知ってる。イカが出す黒い液体だよ」
テストを無事終えたクラスメートたちが、ぼそぼそと言葉を交わしている。
方向性がまとまったのか、金髪やら緑髪やら――とにかく黒髪以外――の彼らはリアムの頭を指さし、
「あいつの頭、イカスミだー」
にやにや笑いを投げかけてくる。その途端リアムは――今まで全然そんなことなかったのに――急に自分の髪色が恥ずかしくなり、顔を赤くした。
なにかを言い返したかったが、言葉が出てこない。
代わりに反論したのは――なぜかグレイガンだった。
「黙れジャリガキども!」
コートの外に顔を向け、唾と一緒に言葉の砲火を放つ。
「人の外見を嗤うのは恥ずべき行為だ!」
「で、でも先生も今――」
グレイガンは、口答えしかけた生徒をひとにらみで黙らせると、
「俺様は自分も黒髪だし、愛称として使ってるからいーんだよ! イカ墨は好物だしな!」
分厚い胸板を張る。いまいちよく分からない基準だった。
リアムがぼーっと見上げていると、視線を戻してきたグレイガンと目が合った。取り繕う間もなく、再び先生がこちらへと矛先を向けてくる。
「お前は不合格の罰として、今日の反省を200ワードの英文でまとめてこい!」
「ええっ⁉」
「返事が悪い100ワード追加だ!」
「ぇあはいっ!」
慌てて背筋を伸ばす。再度発しかけた『悪い返事』を無理やり直したため、裏返った変な声が出た。
「今日の授業はここまでだ! イカ墨小僧は、汚したコートを掃除しておくこと。では解散!」
グレイガンの号令を待っていたかのようなタイミングで、授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。それが鳴り終わる前に、グレイガンはさっさと外へ出ていった。
体育館内に、生徒たちだけが取り残されると、
「やったー! 今日の授業終わりー!」
「エリーは今日、お母さん来られる?」
「うん、今日は非番なんだって」
「はしゃいだりして、お前らガキだな」
「なにそれ、大人ぶってる方がよっぽどガキじゃん」
「そうだよ。レオだって、お父さんに会えるのうれしいくせに」
「そっ……そんなわけないだろ!」
口々に言いながら、ばたばたとクラスメートたちが出ていく。
(僕も行かなきゃ!)
運動着の裾で拭った緋剣を床に投げ置き、リアムは館内倉庫へと走った。早く掃除を終わらせて、リアムも行くのだ。
だって今日は、
(今日は久しぶりに、母さんに会えるんだから!)
◇ ◇ ◇
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