愚神と愚僕の再生譚
2.くすぶる憎悪⑦ まるでそこが在るべき居場所だとでもいうように
「――ゥ! リュー⁉」
「――っ!」
はっとして目を見開く。吸い込んだ空気が鋭く喉奥に突き刺さった。
立っていたはずなのだが、いつの間にか四つん這いになるようにしてうな垂れていた。ツクバが瞳に焦燥の色を浮かべ、こちらの顔をのぞき込んでいる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「なんか、効果あったっぽいですよ。ただ……」
リュートは額ににじんだ汗を、小刻みに震える手で拭った。
「……これはなかなか、こたえますね」
残魂の憎しみが入ってくる。リュートの心をかき乱し、奥底の憎悪を拾い、膨張させ、無理やりにでも同調していく。
誰にだって憎いものはある。潜ませているだけだ。本当はぶつけてやりたい。この気持ちをたたきつけて、思い知らせてやりたい。殺したいほど憎いあいつに。
そう、俺はあいつを――
女神を殺したい。
(――っ!)
「決めるのは俺だ! 勝手に押しつけんなっ!」
わめき立て、リュートは道具の山から崩れ落ちていたナイフを引っつかんだ。そして聖水が塗り込まれたという刃で、破れかぶれに左腕を斬りつける。
「リュー⁉ なにをっ――」
制服が裂け血しぶきが舞う。
吹き出た血とともに、確かになにか別のものが出ていく感覚。
バシッとはじけ出る衝撃に後方へ飛ばされ、一瞬視界を失った。
「残魂っ⁉」
ツクバの驚愕する声を頼りに方向を定め、リュートは身を起こしながら残魂の姿を探した。
飛ばされたのは10メートルほどらしいと、前方に立つツクバの後ろ姿から把握する。
彼女は宙を見上げていた。宙に浮かぶ鬼火を。
いわゆる怪談話に出るような『幽霊』は、残魂の延長線上にある噂話にすぎない。
しかし、闇夜でない明るい空間に漂う鬼火は、まるで場違いな怪奇現象のように思えた。
ゆらゆら揺れる鬼火は――なにを思ったのか、ツクバに向かって急降下し始めた。
なにが起きるのかは分からない。だが防ぐべきだと直感が告げていた。
リュートはツクバの元へと駆けだしながら、胸元の羊の髑髏をつかみ、首紐を引きちぎった。そのまま振りかぶり、
「伏せろツクバッ!」
思いきり投げつける。
理解してか反射的にかは不明だが、ツクバが応えるようにして地面に這いつくばる。
突撃のライン上からツクバが外れたことで的を失った残魂に、空を切り裂く髑髏が食い込み――特に何事もなく通り過ぎていった。
「役に立たねえええ!」
頭を抱えて速度を上げる。ツクバの上を通り過ぎた残魂が急カーブを描いて、再び彼女へと接近したその時、
「この野郎!」
なんとか滑り込むように、リュートは両者の間へと割り込んだ。盾のようにかざした左腕から、流れ伝っていた血がしずくとなって宙に舞う。
鬼火は左腕に触れると、まるでそこが在るべき居場所だとでもいうように、吸い込まれるようにして消えていった。
そして再び、リュートの身体を残魂の憎悪が駆け巡る。
許さない。ユルサナイ。まずハ、あのオンナだ。
あノ女カラ、痛メつけテヤル。あのオンナ――ツノザキ!
「角崎っ⁉」
「いやあたしツクバだけど」
背後で上がった端的な突っ込みに構う余裕もなく、リュートは考え込んだ。見下ろした左腕は派手に血に濡れていたが、見た目ほどひどい傷ではない。
ただその傷奥に潜んだ怨嗟が、ずきずきとしたうずきとなってなにかを訴えている。
『ツノザキ』への憎悪が駆け巡った時に残魂から流れてきたイメージは、リュートの知っている女と合致していた。
(こいつ角崎に恨みがあるのか? 残魂に恨まれるなんて、そんなことあいつが……まあしててもなんら不思議ではないっつーか納得つーか……)
角崎凜が絡んでいると分かった途端、とんでもなく貧乏くじを引かされている気がして滅入ってくる。しかも結局、残魂に憑かれたままだ。
(まあそれでも、未練に関わる人物が分かっただけでも前進か)
多少強引に前向きな点を見つけ出し、リュートはツクバを振り返った。
「先輩のおかげで、少し前進しました。ありがとうございます」
「? よく分からないけど、どういたしまして――それより」
にっと表情を変えて、ツクバ。
「さっきあたしにタメ利いたね」
「え? あ、いやあれは、場合が場合でしたし……」
「関係ない、生意気! 罰としてあたしの実験に、とことん付き合ってもらうからね」
「いやでもっ――」
「大丈夫! その左腕、絶対なんとかしてあげるから」
言ってツクバは、悪意の欠片も感じない、魅力的な笑みを浮かべた。
「そりゃ……ありがとうございます……」
リュートは空を仰いだ。
こんな時に祈れる神がいないというのは――祈ればむしろ災難をもたらしそうな女神など論外だ――結構不便なものなのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
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