愚神と愚僕の再生譚
5.丑三つ時の狂乱③ ……なんであんたが。
「んぐっ……⁉」
襟の後ろを強く引っ張られ、喉元が締め上げられる。しかし、そんなことはどうでもいいとばかりに力は勢いを増し、リュートを後方へと投げ飛ばした。
1回転半の強制的な後転を経て、リュートは加速度的に動く世界から解放された。
「な……んだっ……⁉」
身を起こして、顔全体を服の袖で乱暴にこする。邪魔になるだけの水気を飛ばせればそれでよく、すでにきれいに拭き取るということは完全に諦めていた。顔も髪も服も身体もイカ墨まみれで生臭さ大爆発だったが、女子学生の心霊体験(?)が本当なら、時間が経てばイカ墨は消失するはずだ。
リュートは立ち上がりながら、先ほどまで自分がいた場所に目を向けた。人形への警戒と、回転の際手放してしまった緋剣の位置確認、そして自分を投げ飛ばした者の正体を知るために。
(俺を投げ飛ばせるくらいだからテスター……いや、ツクバの馬鹿力を考えるとその消去法は意味ねーか)
染みる目を何度もまばたかせて、ぼやける視界を調整する。
ピントが定まっていく中見えた背中は、想像していたよりも大きかった。
「……なんであんたが」
なによりも先に立つ不快感にまかせて、リュートは顔をしかめた。見るとその人物と人形を挟んで、セラも同じような表情を浮かべていた。
「なにを醜く騒いでいる」
急におとなしくなった人形と対峙しているその男――セシルは肩越しに振り返り、実際汚物を見るような目をこちらに向けてきた。自分は清廉だとばかりに、純白のローブをこれ見よがしに見せつけている(というのは完全にこちらの被害妄想だが)。その裾がイカ墨に浸ってしまえばいいのにと思いつつ、リュートは減らず口をたたいた。
「なんでもねーよ。ちょっと夜遊びしてただけだ」
「ほう、こんな時間にこんな場所でか。よほど注目されたいようだな」
セシルは肩をすくめ、周囲をうかがうように首を振った。
それでようやく気づいたのだが、いつの間にか寮室のドアが開け放たれ、何人もの訓練生が顔をのぞかせていた。ルームメートとささやき合っている者もいる。誰かが室内の電気をつけたのか、漏れてきた光で廊下が数段階明るくなった。
(まあ、これだけ騒げば当然か)
なんの不思議もない成り行きに、半ば諦めて聞き耳を立てると。
「やだなにこの臭い。くさっ」
「え、なに? なんなの? なんで学長がここに?」
「ていうかあれって、もしかして狂乱童子?」
「その黒い塊はなに?」
「訓練生っぽくない? 男の」
「え、狂乱童子2ってこと?」
「2じゃねえっ!」
さすがにその誤解は諦めきれず、リュートは斜め後方――声のした辺りに怒鳴り返した。
が、それは新たな誤解を生んだようで、
「じゃ、あんたがオリジナル童子?」
「ちげーよ進行形で生きてんぞ俺はっ!」
「一番狂乱してるっぽいけど」
「ほっといてくれ!」
靴裏で足をがんがん打ち鳴らし、やけくそに叫ぶリュート。まさに狂乱といった体だが、一応理性は残っていた。
リュートが注視したのは人形だった。人形は急に数を増やした者たちに対処しきれず、辺りを見回したじろいでいる。加えてセシルを見る目には、わずかにおびえの色が混じっていた。
(今なら簡単に斬れそうだが……)
大勢の注目を集めている中、迂闊に刺激するのはやぶ蛇になりかねない。人形の様子を見る限り、セシルを父さんと呼び出してもなんら不思議ではない。
そんなリュートの葛藤をよそに、セシルが声高らかに口を開く。
「今は特殊事態対処中だ。各自不干渉を貫け」
しかし訓練生たちは好奇心が勝っているのか、珍しくもセシルの命令に鈍い反応を示した。
ほとんどの訓練生が従わない状況を見て、セシルはトーンを落として静かに続けた。
「もう一度言う。部屋に戻れ。無論聞き耳を立てるのも許されない。従わぬ者には罰則を科す。とびきり重い罰則をな」
「……どのくらいですか?」
好奇心の充足と、心身の不利益を秤にかけて問う訓練生。
セシルは「ふうむ」とうなずき、
「皆、その名を聞いたことくらいはあるのではないかな。リュートという問題児の名を。従わぬ者は今後、その生徒と同じ扱いをする」
ばたたたんっ! と一斉にドアが閉じた。
「うわ……お兄ちゃんの知名度ってすごい……」
「ドン引きしながら感心するな」
一転して静かになった廊下にむなしさを覚えながら、リュートは八つ当たり気味にセラへと告げた。
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