愚神と愚僕の再生譚
6.守護騎士失格⑤ そして結局、なにもできない。
◇ ◇ ◇
一体なにが起こったのか。
(分からない)
分からないまま、明美は廊下を走り続けた。
(なにが起きたの?)
一瞬眠ったような感覚に陥り、気がついたら龍登に顎をつかみ上げられていた。砕かんばかりの力を込められて。
(どうして?)
あまりの怖さに涙がこぼれる。
龍登は明美に敵意を向けていた。あれは明美を憎む目だ。
それも、ともすれば他を向くような、気まぐれな憎しみではない。それることなく明確に、真っすぐこちらに向かってくる憎悪。
(でもどうして……)
さっきまで仲良く話せていたと思ったのに。龍登の態度が豹変した理由が分からない。
「痛っ……」
顎が痛む。息が切れてきたこともあり、明美は走るのをやめた。もとより、どこに行くという当てもなかった。ただ怖くて逃げてきただけだ。
「痛いよ、天城君……」
顎に手を当てつぶやく。
どうすればいいのか。悪いことをしたなら謝りたいが、なにを謝ればいいのかも分からない。
いや、
(分かっていても、私謝れてないじゃない)
こちらをにらむもう一対の目を思い出し、自嘲する。
淡い希望をもち始めた矢先だったのだ。変われるかもしれないと。
多目的室の窓から龍登に向かって叫んだ時、本当は怖かった。
龍登と瀬良が、なんらかの目的をもって自分のそばにいることに、うすうす気づいてはいた。その理由を探せば、真っ先に思いつくのは可触体質を見抜かれたという可能性だ。先ほどの自白がなくとも、龍登はとっくに知っていただろう。
それでも自ら話すことで龍登に確信を与えてしまうことになるし、あんな場所から叫べば他の生徒に聞かれる可能性もあった。だから怖かったのだ。
その怖さを振り切って、龍登の身を案じられたことが小さな勇気となった。
同じ過ちは繰り返さないと。もう自分は保身に走ったりしないのだと。
そう思えたのに、巻き戻ってしまった。
自分を憎む目が怖い。恨む目が怖い。軽蔑する目が怖い。謝るために、それらの視線にさらされるのが怖い。
そして結局、なにもできない。
(私はいつも、恩を仇で返してばかり……)
下唇を嚙み、明美は無意識に伏せていた顔を上げた。
いつの間にか3階に来ていたらしい。目の前には、2年8組の教室があった。
1年生時の演劇で燃え尽きるためか、2年生の文化祭は準備期間をあまり取らない、添え物レベルの催しになりがちだ。まだ残って準備するほどの切迫感もないらしく、教室はがらんどうだった。もしかしたら近くで行われているとかいう、テレビ局のロケを見物に行っただけのかもしれないが。
(……座るくらいなら、いいよね?)
少し後ろ暗い気持ちを抱えながらも教室に入り、扉に近い、最前列の席に着く。
(なにやってんだろ、私)
落ち着いたところで、また自己嫌悪に襲われる。明美は机に突っ伏し、拳を握り締めた。
「しっかりしないと……ちゃんと、謝らなきゃ……天城君にも……」
あの人にも。
1年も先延ばしにした謝罪を、受け入れてもらえるのかは分からない。それでも謝らなければならない。
(あと、ありがとうって。助けてくれてうれしかったって、伝えなきゃ……)
…………
(伝え……られるの……?)
鼓舞してすぐに実行できるなら、そもそもこんなことにはなっていない。
ぎゅっと目を閉じる。拳は握ったまま、呼吸を重ねる。このまま内に閉じこもってしまいたい。
決意と言い訳を行ったり来たりしているうちに、時間は過ぎていく。だんだん夢うつつになり、時間の感覚も分からなくなる。
「――捜しましたよ。てっきりリュート様と一緒かと思ってましたのに。こんな所でどうされたんです?」
耳に届いた、透明感のあるソプラノ声に惹かれるように、明美は顔を上げた。
「……水谷さん?」
机の前に瀬良が立っていた。隣には見知らぬ少年も一緒だ。爽やか系アイドルも顔負けの容姿で、守護騎士の格好をしているが、年は明美たちと同じくらいに見える。
少年は品定めでもするかのように、こちらを見下ろしてきた。
「へえ、彼女が」
ひとり納得したように少年がうなずくのに合わせて、オレンジ色の髪が揺れる。
「テスターさん、無礼極まりないですよ」
瀬良はぶしつけな視線を送る少年を後ろへと追いやり、明美に向かって深々とお辞儀をした。
「失礼しました――お戻りを心待ちにしておりましたよ。女神様」
先ほど、理解できないことが起きたばかりなのに。
「え?」
理解できないことが、またひとつ増えてしまった。
◇ ◇ ◇
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