愚神と愚僕の再生譚
3.雲下の後悔④ ゆがんでいて、品がなく、救いもない。
◇ ◇ ◇
昼までの青空が嘘のように、一面の雲が空を覆っていた。雨を控えた独特の空気感に、無性に寂寥感をかき立てられる。まだ肌寒さの残る風は、身を刺しはしないが優しく包み込みもしない。
自分ひとりだけを残して世界が動いていくような、そんなもの寂しさを銀貨は感じていた。
(やっぱり、ここが一番落ち着くな)
10日ほど前――入学初日のことだった。角崎凜と同じクラスになり、早速また標的となった。
第一志望の高校に落ちたことに加えての絶望的状況に嫌気が差し、逃げるように屋上へと向かった。具体的にどうこうしよう、という気はなく、ただひとりになれる場所が欲しかった。
屋上に続く扉は錠前で施錠されていた。が、乱暴に何度か引っ張ると、扉に取りつけられていた掛け金の方が、あっさりと壊れた。たぶん経年劣化していたのだろう。
なんにしろ、それは連続する不幸の中で起きたわずかな幸運だった。いずれは掛け金の損壊が発覚するだろうが、それまでは、この人気ない広い屋上は自分だけのものなのだ。
晴天の日は青空に身を清め、暗雲の日はひとりで浸る。
すでに屋上は、銀貨の高校生活に不可欠な場所となっていた……
「ここがあんたの秘密基地?」
唐突に、背後から笑いを含んだ声。
「っ⁉」
耳に触れるだけで心臓に痛みが走る。
銀貨は焦燥とともに振り向いた。
「つ、角崎⁉ なんでここにっ……」
「あんたがこそこそ出ていくのが見えたから、ちょっと遊んでやろうかと思ったんだけど」
凜は高飛車に周りを見渡し、
「屋上って入れんだね。いいね、ここならあんま人来ないだろうし」
薄く唇を開く。凜が人を痛めつける時に出る、いつもの笑みだ。ゆがんでいて、品がなく、救いもない。
「や……やめろよ!」
ようやっと言葉を前に出すが、その分だけ身体は後退した。
「あんたはそればっかだね」
凜は腕を組むと、くいと顎を上げた。
「いいよ、やめたげても」
「え?」
ずっと待ち望んでいたはずの言葉を、さらりと告げられほうけた声が出る。凜は銀貨の反応を堪能するように、一拍ほど置いてから続ける。
「その代わり――あの守護騎士、懲らしめるの手伝ってよ」
「龍登君、を……?」
「本っっ当いらつくんだよね、存在自体が。アシスタントとべたべたするわ、バレーで運動神経いいアピールするわ……なにが護ってやる、よ。恩着せがましい! 別に鬼がいて困るわけでもないし、こっちは頼んでないっつーの!」
がんがん足を踏み鳴らし、顔をひくつかせる凜。
「で、むかつくから追い出したいんだけど、ただ追い出すんじゃなく、徹底的に痛い目見せてやりたいじゃん? だからあんたも手伝って」
「………………ぃ……」
「?」
「…………だ」
「は? よく聞こえない。はっきり話してくれる? そーいうのウザいんだけど」
組んだ腕を指でたたきながら、凜が一歩詰めてくる。いつもなら、ここで怖じ気づいて終わりだ。が、
(龍登君は僕を助けてくれた。あの時確かに、本気で怒ってくれてた)
幼い頃描いていた通りの姿だった。
凜に従えば、守護騎士を――ヒーローとして憧れていた存在を陥れる側になる。
それは踏み越えてはいけない一線のような気がした。越えてしまえばもう、自分は一生おびえて生きる側だ。だから、
「…………嫌だ」
伏し目がちではあったが、今度ははっきりと言えた。
完全に予想外だったのか、凜は一瞬虚を突かれた顔をした後、
「……はぁ⁉ なに言ってんの? 山本のくせに。生意気なんだけど!」
ぐい、と胸倉をつかんでくる。
逃げるように一歩下がると、踵が段差にぶつかった。
落下防止用のフェンスはない。だから立ち入り禁止になってたんだなと、今更のように納得する自分がいた。
「あんま下がると落ちちゃうんじゃない?」
意地悪く笑い、凜が一歩進む。その分、銀貨は追いやられる。片足はもう段差を越えて、屋上の縁に届いていた。
先ほど奮い立たせた心が、急速にしぼんでいくのを感じた。
(なんで僕がこんな目に……)
――あいつさえ、助けなければ。
何度も抱いた後悔を、今もまた抱く。
と――
「なっ……」
凜の顔が驚愕にゆがむ。釣られて視線の先を追い、顔を後ろに向けると。
鬼がいた。
「う……うわあああああぁぁぁぁっ⁉」
鼻先に迫っていた深紅の瞳から逃げようと、銀貨は慌てて身をよじった。
「ちょっ……落ち着けっての! ったく、どうせ触れないのに慌て過ぎだし、ダサ過ぎんのよあんたは!」
胸倉をつかんだまま、毒づいてくる凜。
だけど頭の中はパニックで、鬼から逃げることしか考えていなかった。
「う、ううううるさいっ!」
邪魔な腕を振り払おうと、銀貨は思い切り凜を突き飛ばした。後ろに向かって。
つまりは、屋上の縁に向かって。
「ちょっ、馬鹿っ……」
凜の足がもつれ、身体がぐらりと傾く。
鬼にぶつかるかと思いきや、触れることのないそれはなんの支えにもならず、ただ透過しただけだった。
それでもなんとか踏みとどまろうと、彼女が足を突き出した先には、踏み締めるべき地がなくて。
「え?」
ほうけたような表情を残し、凜の姿がかき消えた。
◇ ◇ ◇
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