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 自分を襲っているのが微睡みなのか酩酊なのか、それとももっと別のものなのか。  しかしヘイゼルは徐々に、自分の頬にあたる細く長い糸の束の感覚が強くなっていくのを感じた。  刺激が強くなっているのではない。自分の感覚が戻ってきているのだ。  さっきまで視覚はおろか五感全てがマヒしていたようで、ただ自分の体が大きく揺れていることだけが唯一分かるものであった。  触覚の次に聴覚が動き出す。自分とは別のものの息遣いと一緒に、「どちらだ」というつぶやきが聞こえた。  ファランヴェール。ヘイゼルにはその声の主が誰なのか、すぐに分かった。  揺れは感じない。止まっているのだ。ファランヴェールは、意識のほぼなかったヘイゼルを放り出すことなく、背負い続けているようだ。  ファランヴェールの髪がヘイゼルの鼻をくすぐる。ヘイゼルはその中にふと、フユの匂いを感じた。 ――なぜ?  それは突然のことだった。ヘイゼルがファランヴェールの首に腕を巻き付け締め上げる。全くの無警戒だったファランヴェールの首にヘイゼルの腕が食い込んだが、ファランヴェールが背中から壁に体当たりをすると、ヘイゼルはしたたかに壁に打ち付けられ、その激痛から腕を離してしまった。  壁をずり落ちるように地面へとしゃがみ込む。次第に取り戻してきた視界の中、ぼんやりとした光が点滅する薄暗い通路をバックに、長い白髪のバイオロイドが自分を見下ろしていた。 「目が覚めたらいきなりとは。それほど私が憎いのか」  フユを見るときとは明らかに違う目が、ヘイゼルを見つめる。 ――その冷やかさ、冷徹さが、お前の本性だ。 「フユに近づくんじゃない。お前が、お前がフユを危険にさらしてる」 「私が?」  ヘイゼルの突然の言葉に、ファランヴェールは眉を寄せる。 「意味が分からないな」 「裏切り者のくせに」  しかしその言葉に、ファランヴェールの顔から怪訝さが消えた。 「そうか。あの時、マスターと私の話を聞いていたのか。ならば、これだけは言っておこう。確かに私は、バイオロイド管理局と連絡を取っている。それを弁明するつもりはない。しかしそれも、今となってはマスターを護るための手段に過ぎない」  そう言うとファランヴェールは、いまだ力なく壁にもたれてしゃがんでいるヘイゼルの首を手でつかんだ。ヘイゼルがその手首を両手で持って抗うが、ファランヴェールの手はびくとも動かなかった。 「私は君とは違う。あらゆるものよりもマスターの命が優先なのだ。その為なら、今すぐにでも君を処分したい気持ちを抑えることも、その君をここまで背負って移動してきたことも、苦ではない」  ファランヴェールはヘイゼルの首を掴んだまま持ち上げ、ヘイゼルを立たせる。 「マスターを危険な目に合わせているのは君の方だ。君さえいなければ。君のDNAに組み込まれたパーソナル・インプリンティングさえなければ、マスターが命を狙われることなどないというのに!」 「パー……パーソナル・インプリンティング?」  聞き覚えのある単語。ある特定の個人がそのバイオロイドの行動原理とあるように遺伝子操作を行う技術。しかしそれは禁忌の技術であり、研究すらも許されていないもの。 「それが、ボクに? どういうこと」  ファランヴェールの言葉がヘイゼルを混乱させる。 「君は生まれながらにして、呪われているのだ。それは君が存在し続ける限り、マスターを苦しめる」  実際、ファランヴェールにはヘイゼルにPIが組み込まれていると断定できる確信はない。あるのは状況証拠だけである。  しかしそんなことは、今のファランヴェールには関係ないことであった。  「う、うそだ。そんな、フユは、ボクの」  ヘイゼルが最後まで言い終わらないうちに、ファランヴェールはヘイゼルを放り投げた。ヘイゼルは受け身をとることなく通路に投げ出される。  通路は枝分かれになっている。ファランヴェールはここで道を決めかねていたのだ。 「そうだな、確かにそうだ。君と私は『敵』同士。ならば、どちらがマスターを護るに相応しい存在か、勝負といこう」  ゆらりと、ファランヴェールがヘイゼルへと近づく。 「はっ、願い下げだね!」  ヘイゼルは、動くようになった自分の体を素早く起こすと、ファランヴェールを捨てて通路を走り出した。  その後ろ姿を見届け、ファランヴェールが一つ息を吐く。 「全く、手のかかることだ。マスター、今行きます」  そしてファランヴェールも、ヘイゼルの走る足音を追いかけ、通路を走り出した。
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