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※  ヘイゼルの頭の中では、たった一つの単語だけが繰り返し繰り返し響いている。まるで、それ以外のことを知らない者が、その単語の意味を知らずにただ叫び続けているようだった。  コロス  しかし、本来その単語に乗るべき負の感情は一切感じられない。それはまさに感情の無い殺意――それ自身は手段であるはずのものが目的となった殺意――であった。  ヘイゼルがその「脅威」に気づけなかった理由はまさにそこにあったのだが、今のヘイゼルにはそのようなことを考える余裕は一切ない。  幹の太い樹木は仕方ないとしても、目の前に現れたのが細い葉を茂らせる低木ならば、ヘイゼルはそれを迂回することなく跳び越えた。時折、ドレスの裾に枝が絡まったが、特殊繊維でできた服が破けることはない。自分を後ろへと引き倒そうとする力をヘイゼルが強引に引き剥すと、ヘイゼルの後ろで何本もの枝が少し湿り気を帯びた音を立てながら折れた。  ヘイゼルの腕や足にはもうすでに何筋もの引っ掻き傷ができている。そこからは紫色の体液がにじみ出ていたが、ヘイゼルはそれには一切意識を払わずに、跳び、そして走り続けた。  林を抜け、白っぽい岩でできた山の尾根に出る。それを越えたところで、ヘイゼルはようやく、自らが守るべきと決めた少年の姿をその目に捉えた。  自分の頭の中に響き続ける言葉の発生源とともに……  灰色の長い髪を振り乱し、一体のバイオロイドがフユの首に腕を回している。振り上げられたもう片方の腕の先、その手には銀色の細い金属が握られていた。  空を覆っていた雲の切れ間から洩れるロスの赤い光が、その刃を赤く煌びやかに染めている。  まるでそれが、今まさにフユの首に突き立てられてついた血のように見えて、ヘイゼルは大きな声を上げた。  意味をなさない高音。  もしヘイゼルが魂というものを持っているのだとすれば――果たして人間にもバイオロイドにも『魂』はあるのか、それは誰にも分からないことであったのだが――それが強振して大気を震わせたようであった。  目の前のバイオロイドが、顔を上げる。目と目が合った瞬間、ヘイゼルはまるで凍り付いたかのように、その動作を止めてしまった。  いや、実際、ヘイゼルの『心』は凍り付いてしまっていた。目の前で、今まさに手に持ったナイフをフユの首へと突き立てようとしているバイオロイドは、どこまでも、自分とそっくりな顔をしていたのだ。  もしそのバイオロイドがヘイゼルに目もくれずに振り上げた手を下ろしていれば、ヘイゼルは自分の自我を崩壊させるような事態を直接その目で見ることになっただろう。  そうならなかったのは、そのバイオロイドも動きを止め、ヘイゼルを見つめているからだ。  その目がヘイゼルに何かを訴えている。  しかしヘイゼルは動けない。まるで自分がフユを襲い、そして殺そうとしている……その光景がまるですでに起こってしまったことのように、繰り返し繰り返しヘイゼルの脳内にフラッシュバックとなって現れては消えていく。ヘイゼルはまさに機能不全に陥ってしまっていた。  ヘイゼルに瓜二つのバイオロイドが、目を見開き、ヘイゼルを見つめ続けている。しかしヘイゼルは何も反応することができず、ただゆっくりと頭を左右に振った。  それは、事態を受け入れるのを拒否する行動なのか、それとも、己の脳内に再生され続けるフラッシュバックを振り払うための行動なのか……  バイオロイドの目からふと力が抜け、見開かれていたものが軽く緩む。それは一見穏やかな微笑みにも見え、ヘイゼルははっと我に返った。  バイオロイドがヘイゼルを見つめたまま、振り上げていたナイフを勢いよくフユの首元へと振り下ろす。  それを、どこからともなく飛び出してきたファランヴェールの左手がつかんだ。ファランヴェールは軽いうめき声を立てたが、握りしめたナイフを離すことはない。バイオロイドが持つ体液――紫色の液体が、ナイフを伝い、フユへと滴り落ちた。  ファランヴェールの右手がそのバイオロイドの首元へと伸びる。バイオロイドはナイフから手を離すと、ファランヴェールの手をするりと躱し、フユから身を離した。  その瞬間、かはっというフユの息継ぎの音が辺りに大きく響く。 「ヘイゼル」  ファランヴェールの鋭い声が飛んだが、ヘイゼルはまだその場から動けないでいる。  と、ヘイゼルと同じ顔を持つバイオロイドが、ファランヴェールの体液に染まった右手を、フードマントの胸の隙間に差し入れた。  そして、ふっと息をつく。  その表情が、まるで安寧を手に入れた者のように――救助された瞬間に見せる人間の表情のように見えたのは、その光景を後で繰り返し嫌というほど夢に見ることになる、フユの思い過ごしなのかもしれない。  次の瞬間、ファランヴェールが、拾い上げたナイフでそのバイオロイドの胸を刺し貫いた。
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