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 ファランヴェールの体が宙に舞う。ネオアースの小さくはない重力の下では、しかしそれは「過ぎた」ものだった。  ヘイゼルの力に逆らわず、自らも跳んだファランヴェールは、宙で体をひねりると、そのまま両の足で着地する。そして、再度の攻撃に備えるために身構えたのだが、すぐに、その必要のないことを知り、構えを解いた。  ヘイゼルがよろよろと立ち上がり、ファランヴェールには見向きもせずにまた歩き始める。しかしその足取りは重く、右へ左へとよれながら――  ヘイゼルの状態がおかしいことは、ファランヴェールの目にも明らかだった。体は見るからに細かい傷だらけであったが、それが原因とは思えない。 「なるほど、鎮静剤か。何をしてきたのかは分からないが、ヘイゼル、そんな体でどうするつもりだ」 「うるさい」 「私に、マスター……フユの居場所を教えなさい。私が助けに行く」 「だまれ!」  ファランヴェールの声掛けに、ヘイゼルはよろめき歩きながら、振り返ることなくそう怒鳴り返す。  ファランヴェールはヘイゼルに近づくと、その両肩を掴んで自分の方を向かせた。 「フユが危険なのだろう。君はフユを危険な状態のまま放置するつもりか。君は、フユを、見殺しにするつもりか!」  剣先にも似た鋭い言葉がヘイゼルを責める。ヘイゼルが一瞬キッとファランヴェールを睨んだが、しかしその眼光は弱弱しく、ヘイゼルは朦朧としているのだろう、今にも瞳を閉じてしまいそうで、それがファランヴェールを焦らせた。 「さあ!」  ファランヴェールがヘイゼルを激しく揺さぶる。その唇が、僅かに動いた。 「……てけよ」 「何?」 「ボクを、一緒に、連れてけよ。でなければ、教えない」 「何を悠長な。フユに何かあってもいいのか!」  ヘイゼルが服を着ていれば、きっとその胸倉をつかんでいたことだろう。代わりにヘイゼルの肩を握るファランヴェールの手にぐっと力が入ったが、その痛みに顔を歪めつつも、ヘイゼルはぷいっと、ファランヴェールから顔を反らした。  ありえない。ありえないことである。ヘイゼルのその反応は、まさに『是』であったのだ。  自分とヘイゼル、同じ人間をコンダクターとし、同じ人間の命令で動き、そして同じ人間を慕っていて、同じ人間を護ろうとしている――そう思っていた。 ――違う。  しかし、違ったのだ。それはファランヴェールの誤解だったのだ。  この者は、フユを護ろうとしているのではない。『独占』しようとしている。そしてもし手に入らないのなら、他人の手に渡るくらいなら、いっそのこと、それが『無くなって』しまえばいい――そう考えているのだ。  それはファランヴェールが考える『愛』ではなかった。しかし『憎』でもない。その感情の正体が分からず、ファランヴェールは混乱する。  この者は、自分には理解できない行動原理で動いているのだ―― 「フユのところに行きたいんだよね。だったらさあ、早く、早くボクを連れて行けよ。ボクが眠ってしまう前に」  ヘイゼルの体にはもうファランヴェールの圧に抵抗するような力は入っていない。ファランヴェールが肩を掴んでいる、その力すら利用しないと立っていることがままならない状態になっていた。  ファランヴェールが唇をかむ。その表情を見て、ヘイゼルが笑った。 「早くしなよ、主席様」  ファランヴェールは一瞬、ヘイゼルを強く睨んだ。睨んだ後で、ヘイゼルの言葉に応ずることなく、そのままヘイゼルを負ぶった。 「加減はしない。舌を噛まないよう気をつけるといい」  ただそうとだけ言うと、ファランヴェールは全速力で走りだす。ヘイゼルがファランヴェールの耳元に、進むべき方向をつぶやく。その方向へとファランヴェールはただ脚を動かした。  林の中、木や岩、窪地を飛び越え、火災現場から遠ざかる方向へと進んでいく。そのまま小さな丘を駆け上がるが、木々はそこで切れた。 「止まって」  丘の頂上部に来たところでヘイゼルがそう言った。その言葉に、ファランヴェールが走るのをやめる。  そこは、何もない――木々は丘のふもとまでしか生えておらず、斜面から上はただ草だけが生える場所になっていた。丘自体は非常に小さいもので、半径は二百メートルもなさそうである。高さも二十メートルほどだろうか。ふもとに広がる木々の向こうには、いまだ燃えているビル火災の炎が見える。そこまでも一キロメートルとないだろう。 「マスターはここにいるのか」  しかし、ファランヴェールが見回しても、何かしらの建物、人影、いや動きのある物体すら感じられない。 「いる。でも、ここじゃない」 「どこだ」 「この、下」 「下?」  ファランヴェールは足元を見た。暗闇の中足を動かしてみるが、草の感触しかしない。 「何もない。それとも地面の中だとでもいうのか」 「そうだよ」  半ば皮肉めいて言った言葉を肯定され、ファランヴェールは一瞬怪訝な表情を見せた。 「どういうことだ」 「分からない。でも、この下にいる」 「下……地下に建物でもあるというのか」  ヘイゼルの言葉が本当だとすれば、そう考えるしかない。しかし、いかなネオアースの建物の多くが地下を中心に造られているからと言って、地上部分に構造物が無い、地下だけの建物など聞いたことが―― 「この丘、これ自体が建物か」  そう問いかけてみるが、ヘイゼルにはそれに応える気力がもう残ってい無さそうだった。  このままヘイゼルをここに放置していきたい衝動をこらえながら、ファランヴェールはこの丘を一旦下り、ヘイゼルを背負ったまま周囲を走る。  と、木々の暗がりの中、一瞬僅かに光を反射したものに気が付いた。近寄って、手に取る。 「これは、コンダクターが使うインカム」  もしやと思い、地面をライトで照らす。多量の落ち葉が何者かに踏み荒らされている様子が目に入った。  ファランヴェールはそれを辿り、丘の周りをさらに回る。と、その足跡が切れた先で、大きな岩を思わせる構造物にぶつかった。  その真ん中には、黒々とした穴が開いている。その中では、壁にへばりついたような薄明かりが脈動するように点滅を繰り返していた。
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