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※  理事長室に突然、コールの電子音が鳴り響く。理事長のキャノップと管理部部長のウォーレス、二人の話がちょうど一段落したところだった。  パネルに表示されたコール元がバイオロイド管理部であること見て、キャノップはすぐさま端末の『応答』ボタンを押した。 「何だ」 『申し訳ございません。ヘイゼルが、フォーワル・ティア・ヘイゼルが脱走しました』  スピーカーから管理部の一人の慌てた声が飛び出してくる。キャノップはそれに応じることもなく、まだ理事長室にいたゲルテ・ウォーレスを一睨みした。  ウォーレスが肩をすくめる。 「本気で暴れるバイオロイドを押さえるには、人間は非力すぎるんですよ」  そして、申し訳なさを微塵も感じない表情でそう答えた。 「鎮静剤を使ったんじゃないのか」 「そうなんですがね。動けたとしても多分、フラフラのはずで」  ウォーレスの答えに、キャノップはこめかみに指を当て、頭を振った。 ※  インカムから聞こえたヘイゼルの言葉に、フユはすぐに反応した。 ――ポーターから出て。  その理由は分からない。  ポーターが危ないのなら、その理由を知り、それをヘフナーに伝えるべきなのかもしれない。しかしそれを問い返すその数秒が運命を分けることがあるのだ。  己の命は己で守る。それが救助隊の行動原理である。ヘフナーの命はヘフナー自身で守るものなのだ。  ポーターから飛び出し、すぐにインカムに呼び掛ける。 「ヘイゼル、どこにいる。何があるんだ」 『そのまま東へ走って』  東。教官のエタンダールたちがいる指揮四号機がある場所とは真逆の方向である。フユはその方向、火事の赤い光もあまり届いていない林の方向へと走った。  ヘイゼルは遅れて合流する。エタンダールはそう言っていた。ヘイゼルがやっと到着したのだろう。  ヘイゼルはフユに迫る何かの危険を察知したのだろうか。 「ヘイゼル、どこだ」  GPSがこの地域で死んでいるのなら、ヘイゼルにも自分の場所は分からないに違いない。しかしヘイゼルはフユのいる場所を把握しているようだ。 「ヘイゼル!」  フユは木々の中に入ったところで足を止め、インカムに向けてではなく、暗闇に向けてそう叫んだ。  しかし聞こえてくるのは、風に揺れる木々の軋みと葉の擦れる音ばかりである。そのままヘイゼルの名を呼び続けながら、フユは奥へと進んでく。  ふと、気配を感じてフユが後ろを振り返る。外から林の中に洩れ入る薄明りの中、長い髪の人影がそこに立っていた。  その名を呼ぼうとして、フユは言葉を飲み込む。灰色の髪、そして透き通るような白い顔。その体は、彩度の無いローブで覆われていた。 「違う……ヘイゼル、じゃない」  さっと、フユの全身を冷たい感覚が流れる。  声……確かにインカムから聞こえる声はノイズを除去した機械音である。しかし声の主が違えば聞こえてくる機械音も変わる。ヘイゼルとファランヴェールの声は、インカムを通しても判別が可能なのだ。  フユが聞いた『声』は確かにヘイゼルのものだった。しかし目の前にいる人型の動体は、明らかにヘイゼルではない。  いや、その髪、顔、そしてシルエットはまがいもなくヘイゼルのものである。しかし、ヘイゼルとは違うものが二つあった。  服。ヘイゼルはローブなど身に着けない。緊急であればきっと何も着ずに来るだろう。そして肌の色。今のヘイゼルは肌の色も灰色である。  目の前のヘイゼルに似た『何か』は、わずかな光も反射するほどに肌が白かった。  バイオロイドならば、フユがどう逃げても無駄であろう。そしてその可能性が極めて高い。目の前の『何か』は、ヘイゼルそっくりの、フユを襲ったあの女性型バイオロイドのような『何か』に違いないのだ。 ――ファルに。  助かる可能性があるとしたら、そうするしかない。ファランヴェールの圧縮暗号、知らないものが聞けばどこかノスタルジックを感じるような旋律を口ずさむために、フユがインカムに意識を向ける。  と、インカムからまた歌が聞こえた。 『フユ、そこは危ない。ポーターから出て。急いで』  はっとして、目の前のバイオロイドに視線を向ける。もちろん、口は動いていない。しかしフユは確信した。  目の前のバイオロイドは姿かたちだけではない、声も、そして使う圧縮暗号も、ヘイゼルのものなのだ。  フユが一つ、後ずさりをする。次の瞬間、フユの視界からバイオロイドが消え、その次の瞬間、フユは首筋の鈍い痛みとともに自分が意識を失うのを感じた。
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