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 休日であったとしても、理事長という役職に就いていれば、何かと仕事はあるものである。  クエンレン教導学校の理事長、キャノップ・ムシカは、理事長室のプレジデントデスクで書類の束に目を通していた。決裁書類は電子データではなく紙で――これは科学の発展の度合いには関係ないようだ。  人間の物質崇拝思考のなんと罪深いことか……  キャノップは書類をめくりながら、ため息をついた。  と、デスクの上の情報端末が電子音を響かせる。学内にあるバイオロイド管理部からのコールであることを確認し、キャノップはトークボタンを押した。 「どうした」 『ヘイゼルの姿が見当たりません。午前中ずっとメンテナンスを受けていたのですが』  男の声。管理部の部長だった。少し焦った様子である。 『コールにも応答しません。脱走の可能性があります。以前のこともありますし、管理局の目もあります。エンゲージを……使いますか』  その言葉に、キャノップは少し不機嫌な表情をする。 「あれは、ヘイゼル探しために獲得したのではない。それにヘイゼルのことはすでに手を打ってある。今も、今後も、ヘイゼルについては気にしなくていい。君らの失点にはしない」  キャノップはそう言うと、会話の相手が発した安堵するような返事を確かめた後、コールのオフボタンを押した。 「やれやれ、想定通りとは」  キャノップの口から独り言が漏れる。事務作業に戻ろうとしたところで、再び端末のコール音が鳴った。また、管理部からの内線である。   「なんだ。ヘイゼルのことなら」  そこまで言ったところで、キャノップが言葉を止めた。 「もう一度」 『ガランダ・シティの地下街で爆発事件発生。原因は不明とのことです』 「当局からの出動要請は」 『まだありません』 「救助隊に出動準備をさせておけ」 『わかりました』  コールが切れる。 「それは想定外だな」  キャノップの口から、先ほどとは別のトーンで独り言が漏れた。 ※  地下街の通路には、フユの想像とは別の世界が広がっていた。  散乱するガラスの破片。通路の中央には、自爆したバイオロイドのものであろう青みがかった紫色の体液が、カンバスにぶちまけられた絵の具のように広がっている。  壁に打ち付けられ、微動だにせずに倒れている者。動かなくなった下半身を引きずるように這い、助けを呼ぶ者。襲い来る激痛を大声を出して抑え込もうとする者……  フユの視界の中、何人もの人間が、生と死の境界を彷徨っていた。  何かを言おうとして、しかしフユの喉からは何の言葉も出てこない。ただ唇だけが上下運動を繰り返すだけである。  そのフユの後ろから、細い手がフユの目を覆う。 「ダメだよ、フユ、見ちゃ、だめだ」  このままその手に身を委ねれば、どれほどフユは楽になれるだろうか。しかし、通路に木霊する女の子の泣き声が、それを許さない。  フユの手が、ヘイゼルの手を自分の目からはぎ取った。 「大丈夫。さあ、ヘイゼル、救護活動を」  フユがヘイゼルに指示を出したが、ヘイゼルは眉をひそめ顔を背けてしまう。ヘイゼルの右頬が煤で汚れているのを見て、フユは自分がヘイゼルの体を気遣っていなかったことを思い出す。しかし、フユはその思いをぐっと飲みこんだ。 「ヘイゼル!」 「いやだ」  ヘイゼルが冷めた目でフユを見る。 「どうして」 「ボクはまだエイダーじゃない。フユだってまだコンダクターじゃない。救護義務はないんだ。ここを逃げよう、フユ」  ヘイゼルがフユの手をつかむ。フユがそれを振り払った。 「駄目だ。怪我人を放っておくことなんかできない」 「どうせすぐ救護隊が来るよ」 「運べる怪我人を運ぼう」 「フユ、だめだよ」  フユはヘイゼルが止めるのも聞かず、一番近くで倒れている男性の許に走り寄った。血が流れているが、動く気配はない。 「ヘイゼル、この人を病院へ運んで。僕はあの女の子を運ぶ」  女の子は壁際でうずくまり、まだ泣き続けている。その泣き声が、フユをどんどん焦らせていく。 「やだよ」  しかしヘイゼルは動かない。 「なぜ!」 「まだここは危険かもしれない。他の人間なんかより、フユの命の方が大切だからだよ」  その言葉を聞いた瞬間、フユはヘイゼルの前に戻り、そして平手で頬を張った。  決して褒められた行為では無い。それはフユにも分かっている。しかしフユには、ヘイゼルの言葉が我慢できなかった。  ヘイゼルの言葉は、バイオロイドの『掟』から明らかに外れている…… 「僕の言うことを聞くんだ、ヘイゼル。でなかったら、僕は選抜会で君を選ばない。そして二度と、君とはペアを組まない」  頬を押さえ、ヘイゼルが見開いた目でフユを見つめる。しかしフユは、それを無視するようにヘイゼルの手を取り、倒れている男性を指さした。 「さあ、早く。この人を病院まで運んで。場所は分かるだろ」  ヘイゼルはそれでもなお抵抗しようとして、しかしとうとう諦めたように、男性を抱えるべく、その傍に腰を下ろした。 「待ちなさい」  そんな二人に、するどい制止の声が飛ぶ。  驚き、振り返ったフユが見たのは、白い髪を揺らし、こちらへと走ってくるのバイオロイドの姿だった。 「ファランヴェール……」

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