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 なぜファランヴェールがここに……  フユがそう思うのも当然だろう。自分たちの窮地に、偶然にも救世主が舞い降りてきて――そう考えるには余りにも出来すぎている。  フユの傍まで来たファランヴェールの目には、学校で見せたような穏やかさは含まれておらず、その代わり、一切の質問を許さないといった厳格さが浮かんでいる。 「負傷者をむやみに動かしてはいけない。動かすと却って命が危険になる場合もある」  そう言ってかがむと、ファランヴェールは、フユたちの傍で倒れて動かないでいる男性の様子を見始めた。  そのファランヴェールの姿を見て、フユは安堵を覚えずにはいられない。それは情けないことではあるが、そもそもフユには、救護訓練の経験どころか、まだその知識すらほとんどないのだ。  テロ現場。ともすれば悪夢がフラッシュバックしてくる恐怖。それに抗っていたのはひとえに、ある種の使命感と傍にいてくれたヘイゼルのおかげだった。  しかしそのことに改めて気づかされ、フユはどうしようもないほどの無力感を感じてしまう。 「すみません」  自然、フユの視線は下に落ちてしまった。  ヘイゼルはフユに「救護義務はない」と言ったが、それは確かにその通りなのだ。フユはまだ一般人と変わらない立場にいる。 (ここに自分がいても、できることはないんだ)  そんなフユの気持ちを知ってか知らずか、ファランヴェールはフユの謝罪の言葉には反応しなかった。  ファランヴェールが立ち上がる。それを見上げたフユの瞳は虚ろだ。その顔を、ファランヴェールの両手が包み込んだ。 「いいかい、フユ。負傷者が多い場合、まずトリアージを行い、優先治療群から応急処置を行う。その中で、搬送可能な者を病院へと運ぶのだよ」  喧噪の中、ファランヴェールの高く透き通った声と、自分の頬に当たるファランヴェールの手が、フユの気持ちを落ち着かせてくれる。真っ白な長い髪を後ろで束ねた知的な姿も、フユに安心を与えてくれた。まるで魔法のように。 「はい、分かりました」  今はファランヴェールの指示に従おう。そう思い、フユはファランヴェールの次の言葉を待った。  ファランヴェールは、フユが落ち着いたのを確認するとフユの頬から手を離す。しかしそれ以上何かをしようとはせず、起立の姿勢に収まった。ただそれだけである。  まだ何人もの人たちが苦しんでいるというのに。 「あ、あの、救護活動は」  たまらずフユがそう尋ねると、ファランヴェールの表情が厳格なそれへと変わる。 「エイダーは、命令無しに活動することができない。直属のコンダクターの命令には絶対服従だが、それがいない場合、所属組織のコンダクター、他組織のコンダクター、そして所属組織のコンダクター候補、この順に命令を優先させる。つまり、今私に命令できるのは、フユ、君だけだ。君の命令無しに、私は動かない」  その言葉にフユははっとなった。もちろんそのことをフユは知っている。知っているにもかかわらず、それを忘れていた。  自分がやらなければならないこと、自分にしかできないことが、まさに今、あるのだ。 「ファランヴェールは負傷者のトリアージを行ってください」  コンダクターの仕事は救護活動そのものではなく、それを行うエイダーを指揮することなのだ。 「コピー」  ファランヴェールが鋭く返事をする。そして、マントの内側から色のついたリボンを取り出した。  まず、足元の男性。少し様子を確認した後、赤色のリボンをつける。次に、壁際で泣いている女の子。その子には緑色のリボンを付けた。 「フユ。この子は耳と目をやられている。しかし緊急ではない」  ファランヴェールの言葉に、フユはその子に近寄ると、手を握り、抱き寄せる。 「大丈夫、すぐに病院に連れて行ってあげるから」  そしてその子に、声を掛けた。フユのその声が女の子に聞こえたのかは分からない。しかし、女の子は泣きながらもフユに抱き着いてくる。 「この子の母親は」  女の子のそばに倒れていた女性には目もくれず、ファランヴェールが次に向かうのを見て、フユが思わず尋ねる。  しかしファランヴェールは、フユを一瞬見た後、首を左右に振った。 (これが、現実……)  フユは、女の子をもう一度抱きしめてあげる。女の子の泣き声は少し小さくなったが、今は痛みをこらえているようだ。 「この人は搬送可能だ」  別の場所に倒れている女性の腕にピンク色のリボンを巻きつけながら、ファランヴェールがフユを見た。 「ヘイゼル、あの人を病院へ搬送して」  フユはヘイゼルにそう指示を出す。そこで初めてフユは、ヘイゼルが虚ろな目で自分を見つめていることに気が付いた。  光の無い、黒い瞳。どこまでも深い、闇に覆われたような…… 「ヘイゼル」  フユの口から、命令ではない言葉が漏れる。  次の瞬間、ヘイゼルはマントを翻し、フユから逃げるように走り出した。 「ヘイゼル!」
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